整えること、区切りをつけること

 木の葉が舞い散る季節となり、公園や通りではまるで絨毯のように、色とりどりの枯れ葉が錦を織っています。この光景を目にすると、かつて小学校長を務めていた頃の朝の光景と重なってきます。

 校長を務めた最初の小学校 ───。地域では、あるご年配の男性が、学校近くの公園で毎朝のように落ち葉やごみの清掃しておられました。私が学校へと向かう通り沿いにその公園があるため、毎朝、その方と挨拶を交わすのでした。
 「おはようございます。毎日、毎日、本当にご苦労様ですね」
 「恐縮です。子どもたちが毎日この公園で遊んでいるので、落ち葉やごみがないようにと、掃除しているのです。でも、見てください。このお菓子のくずを・・・。仕方がありまへんなぁ、わはははは!」

 校長を務めた2校目の小学校 ───。地域では、あるご年配のご婦人が、やはり毎朝、学校近くの公民館前で落ち葉やごみを掃いておられました。学校へと向かう際、その方と挨拶を交わすのが常でした。
 「おはようございます。いつも、ご苦労様です。ありがとうございます」
 「校長先生、おはようございます」
 「どんな日でも、毎日、毎日、本当にご苦労様ですね。ありがとうございます」
 「いや、とんでもありません。子どもたちが毎日この前を通るので、落ち葉やごみがないようにと、お掃除しているのです」

 このお二人は、地域は異なるのですが、どちらの方も子どものために”教育環境を美しく整える”という、熱い思いは同じであったと思うのです。

 私が若き教員の頃、シンガーポール、マレーシア、オーストラリアへの教員海外派遣の研修に参加させていただきました。その折、海外と日本の教育の違いについて多くを学ぶことができましたが、とりわけ印象深かったのは教室の掃除です。日本の場合は子どもたち自身で学校・教室を掃除するのが当たり前ですが、研修先のほとんどの学校では、清掃業者が請け負っていたのです。この事実に驚くとともに、日本の教育のすばらしさを感じました。“学ぶ環境を美しく整える”ことも教育のひとつである、と捉えることに慧眼があると感じたのです。
 もうひとつは、学校・教室内での上靴使用のことです。校内に入る時、日本の場合は上靴に履き替えることが多いですが、研修先の国ではほとんどが外靴のままです。履物で、“外と内の区切りをつける”文化が、日本の学校教育に根付いていることを実感したのです。

 私が校長を務めた最初の小学校は、着任当初、子どもたちは私服での登校でした。そこで、より一層、子どもたちの“学ぶ環境を整えたい”との熱い思いから通学服を導入しました。
 導入にあたっては、「通学服の三原則」である、<①私生活と学校生活の区切り><②登下校・校外学習時の安全・安心><③服装の格差をなくす>を示し、通学服の意義を明確にすることで、保護者・地域の方々の絶大なご理解・ご協力、そして教職員の皆さまの大いなる応援を得ることができました。そして、子どもたちがみんな平等に学校生活を送れる環境を、一歩、整えることができたと感じています。教員海外派遣の研修を通して肌で感じたことが、通学服導入の淵源となっていたのです。

 価値観の多様化、個性尊重、ジェンダー平等の時代です。このような時代であればこそ、これらの根底にある“すべての人は平等に可能性を秘めている”ことを、単に掛け声だけに終わらせず、今一度より深く学んでいく必要性を感じるのです。学校教育が担っていく責務を感じるのです。
 「学校は学ぶところである」のは、当然と言えばあまりにも当然のことですが、子どもたちの学びをより深く、より確かなものにすることが大切だと感じます。そのために、“学ぶ環境を美しく整える” “外と内の区切りをつける”ことの意味を、コロナ禍で学びの質が問われている時だからこそ、より一層、痛切に思う昨今です。

 木の葉が夕日に照らされて、キラキラと輝き舞っています。一枚一枚の木の葉には、等しく光が降りそそいでいます。まるで、“すべての子どもたちの平等な可能性”を謳っているかのようです。

 ~ “コロナを乗り越え、学べ!可能性の開花を!”と、心で叫ぶ日 ~  (勝)

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