待っている 人を心に 大空へ

 “平穏な日常生活” ─── この言葉が今ほど渇望されている時はないと感じます。一向に出口の見えないコロナ禍に加え、大国による軍事侵攻が激化するなど、世界情勢は混沌としています。「難民100万人に」「民間人、子どもも犠牲に」といった報道が絶えない状況に心を痛めます。力あるものが弱いものを兵器で脅かす、ライフラインを壊す、住宅を破壊する、そして何の罪もない人々の命を奪ってしまう ───。これらの犯罪は、“国レベルでのいじめ”ではないのかと思えてきます。

 一方、国内に目を向けた時、一部週刊誌やワイド番組では、「個人のプライベートな問題を取り上げ、何の配慮もなく騒ぎ立てる」といったことが散見されます。そこには、“社会レベルでのいじめ”が感じられてなりません。

 私たち大人は、子どもたちに「いじめは、だめだ!」と厳しく言います。私が校長を務めた小学校でも、“いじめは絶対悪”と学校の教育方針に掲げていました。しかし、こどもたちの日常生活には知らず知らずのうちに、“国レベルでのいじめ” “社会レベルでのいじめ”の悪影響が充満していると思えてなりません。その結果、真っ白な子どもたちの心のキャンバスが、無意識のうちに“いじめの色”に染められてしまうかも知れないと危惧しています。今こそ私たち大人は、自らの襟を正すことの大切さを再認識する必要があるのではないでしょうか。
 確かに社会においては、さまざまな次元で課題があることは否めません。しかし、その解決のためだからと言って、力ある者が弱い立場に置かれている者の日常生活を、さらには人生を奪うことなど、絶対に間違いであると言わねばなりません。
 私はこれまで、世の中の“絶対的な判断基準”がなくなっていると感じてきました。では、“絶対的な判断基準”とは何か。それは、“生命の尊厳第一”であると思います。当たり前と言えば、あまりにも当たり前の基準ですが、今一度、この“絶対的な判断基準”を人々が共有する必要性を強く思うのです。“生命の尊厳第一”という大前提に立ち、正視眼で世の中を捉え直していくことが、今、最も必要ではないでしょうか。
 さらに一歩踏み込んで考えれば、脅す側は人、脅される側も人。力による争いの悲惨さを感じるのも人、その悲惨さを感じない人もいるでしょう。そして人は、状況や立場によって、どちらの側にもなってしまう恐れがあると言えるのではないでしょうか。
 では、“生命の尊厳第一”という大前提に立った世の中にするためにはどうすれば良いのか。それは、教育ではないでしょうか。教育現場での判断基準は”子ども第一”ですが、子どもを取り巻く教育環境全体が、“生命の尊厳第一”という温かさで包まれることによって、子どもたちの人を思いやる豊かな心を育くむことができると思います。

 私は小学校担任時代から、子どもたちが6年間の学校生活を終えて飛び立つ時、「社会貢献の翼」を持って羽ばたいて欲しいと、いつも思ってきました。その後、校長としても、6年間のゴールは「社会貢献の人材群の輩出」と思って、一貫して学校づくりに取り組んできました。今、そのことの重要性をつくづくと身に染みて感じます。

 私は、卒業式での「校長の言葉」の結びで、いつも次のように語りかけました。

 ─── 卒業生の皆さん。皆さんのこれからの人生は、決して自分だけの人生ではありません。いつか、どこかで、きっと皆さんを待っている人がいるのです。皆さんを必要とする人が、必ず皆さんを待っているのです。その時にこそ、皆さんがこれまでに身につけてきた力が発揮されるのです。これから、中学校、高校へと進んでいくと思います。その途中、おそらく、試練・困難に遭遇して、幾度かの挫折を味わうことがあると思います。その時こそ、“この試練・困難は、自分を待っている人のためにあるんだ” “この試練・困難は、自分を強くするためにあるんだ”と、歯を食いしばって、乗り越えて欲しいと、強く、強く、願います。
 もう一度、言います。いつか、どこかで、きっと皆さんを待っている人がいるのです。そのことを忘れないで、これからの人生を切り拓いてください。最後に、拙い句ですが、皆さんに贈ります。
   「待っている 人を心に 大空へ」
卒業おめでとうございます。皆さん、お元気で! ───

 ~ 羽ばたく子らの勇姿を、心熱くして思う日 ~  (勝)

hishou

皆さまの声をお聞かせください