前途に立ちはだかる未開の原野。その原野を切り拓かんと、立ち向かう心を燃やす開拓者。未だ経験したことのない困難・試練が連続して押し寄せる今の教育現場に関わる方々は、まさに、“原野に立ち向かう開拓者”であると思います。
『僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る』(注1)
私は、高村光太郎著作の詩 「道程」 にあるこの一節が好きです。まさに今の教育現場で奮闘されている、時には仁王立ちとなって、子どもたちを守るために一歩も引かず挑戦されている方々の姿と重なります。
私が小学校教頭時代に深く心に刻まれた、“生涯忘れられないシーン”があります。
あと数日で3学期の始業式を迎えようとしていたその日、私は学校長から呼ばれ、校長室を訪れました。
「もう君しかいないな。今日も教育委員会へ問い合わせたが、講師派遣はないということだ。申し訳ないが、私もできるだけ教頭の仕事を手伝うので、3学期から担任を兼務してくれないか」
「状況はわかりました。今夜一晩考えさせてください。明日、ご返事します」
6年生のある学級担任が、2学期から体の調子が悪く休みがちだったのですが、3学期から長期の病気休暇を取ることになったのです。代わりの講師の派遣を教育委員会へ依頼していたのですが、6年生の3学期というタイミングでの講師希望者はいないとのことでした。
6年生の3学期は、言わば、“小学校6年間におけるクライマックス”であり、6年生にとっては、もっとも思い出深い学期になります。
─── 子どもにとっては一生の思い出に残る3学期。そのことを思うと、担任時代に何回も6年生を経験した私が担任となり、良き思い出をつくって卒業させてあげたい・・・。
─── しかし3学期は、卒業式とそのあとの入学式の計画・準備を同時並行で進めていく時期であり、校務では1年間の総まとめの時期でもある。教頭としての仕事量は最も多い時期だ・・・。
─── 病気休暇中の担任が行ってこられた学級運営に慣れている子どもたちが、私の学級運営の仕方に馴染むことができるのか・・・。
─── でも、子どもたちの今後の人生を思うと、“良い小学校時代だった“との思いを抱いて卒業させてあげたい・・・。
─── そもそも教師になったのは、“どんな子どもも幸せになって欲しい”という願いからではなかったのか・・・。
─── であるならば、この3学期に6年生の担任をすることは、“決して偶然ではなく必然であったのだ“、この6年生とこの学校で、“巡り合うべきして巡り合ったのだ”
─── “これまでの6年生担任の経験は、この日のためにあったのだ”、よし!担任をしよう!
3学期の始業式から担任がスタートしましたが、子どもたちの反応はまちまちでした。「うわあ、やっと新しい担任が決まった。嬉しい!」という顔もあれば、「担任が休みの時、いろいろな先生が授業をしてくれて教頭先生もそのうちの一人だった。でも、まさか、ずっと担任をするとは考えてなかった」という表情の子も・・・。この反応は、保護者の方々も同じでした。
そこで私は、“精いっぱい、子どもと向き合う”ことを念頭に置き、2つのことを掲げて3学期に取り組もうと考えました。1つ目は、“ていねいな授業を心掛ける”です。これは、いろいろな先生が代わる代わる授業を行っていた間、子どもたちにとっては、落ち着いて学習できる環境になりにくい状況であったためです。2つ目は、“子どものつぶやきに耳を傾ける”です。身近な存在であった担任が、卒業を前にして長期の病気休暇になったことへの子どもの不安や落胆する気持ちを理解してあげたいからです。授業中はもちろんのこと、休憩時にもできるだけ子どもたちと関わることや日記指導で、“心のつぶやき”を感じたいと考えました。
「2学期はいろいろな先生が教えてくれたけど、本当に教頭先生が卒業式まで、担任ですか?」
「そうだよ、心配しないでいいよ」
「前の担任は休みになったけれど、それは私たちのせいですか?」
「そんなことは全くないよ、人間だれでも体の調子が悪くなるものだよ。だから、気にしなくてもいいよ」
「そうですか、安心しました」
「もうすぐ、卒業するけれど、勉強は大丈夫かな」
「心配しなくてもいいよ。私が、しっかりと教えるよ」
子どもたちとのこのようなやり取りや日記指導を重ねながら、“心のつぶやき“を掴んでいきました。そして卒業までの約3ヶ月間、“精いっぱい、子どもと向き合う”という心構えからもう一歩踏み込み、“子どもの中にどっぷりと浸かろう”と、覚悟を決めたのです。
それからというもの、毎日が“ドラマのような日々”になりました。詳しく述べることはできませんが、ゆっくりと教室内の教師机の席に着いていた記憶がありません。ただただ、“素晴らしい思い出をつくって卒業して欲しい”という願いだけは、赤々と燃えていました。
教室内で学級の仕事を終えて職員室に帰ると、私の机上には資料や書物が山々と積まれていました。いくら学校長が教頭の仕事を手伝うと言っても、私にしかできない仕事があったのです。このような“悪戦苦闘”の日々が続きました。それでも、快い充実感があったのを今でも鮮明に覚えています。
そして、迎えた卒業式の日 ───。私は誰よりも早く教室に行き、黒板いっぱいに大きく次のような文字を書きました。「君たちに会えてよかった。そして、また会おう!」と。さらに、各自の机の上に、「卒業するみなさんへ!」と書いた封筒を貼りつけました。その中には、それぞれの子どもへのメッセージを入れておきました。
式の最中は、“練習通りにミスなくすすみ、立派な式にして欲しい”という思いが強く、感動したり涙を流したりする余裕は私にはありませんでした。式は無事滞りなく終了し、在校生や保護者が卒業生を拍手で送る、この日の最終プログラムを残すのみとなりました。卒業する子どもたちが、教室から運動場の“花道”を通って校門から旅立つ時刻になり、教室前の廊下へと移動し始めました。
その時です。私の学級の子どもたちが手に手に一本のカーネーションを持って、廊下に並び出したのです。そして、「先生、ありがとうございました!」と口々に言いながら、私に一本ずつそのカーネーションを贈呈してくれました。まるでドラマのワンシーンのようなこの出来事に、私は涙をこらえながら「ありがとう!」と言うのが精いっぱいでした。しかし、ある子がさりげなく語った感謝の言葉には、思わず涙がこぼれました。
「先生、最後まで、こんな私たちを見捨てずに、面倒をみていただきありがとうございました」
私は心の中で“私こそ、君たちのおかげで、素晴らしい思い出をつくらせてもらったよ”と叫びながら、両腕いっぱいのカーネーションを抱えて、“花道”を、子どもたちの先頭になって歩いた光景が、今でも忘れられません。
前回のコラムで、「課題の山々を登り切った後に見える風景は、これまで誰も経験したことのない“心に刻まれる絶景”であり、“生涯忘れ得ない圧巻の光景”である」と述べましたが、この時私は、確かに“生涯忘れ得ない圧巻の光景”を体感することができました。そして教育に携わる者としての、人生の“芯”ができたのを実感したのです。「今後、校長としてどこかの学校へ赴任することと思うが、何があっても、この“芯”があると倒れない」との確信を得たのです。子どもたちに感謝!感謝!でした。
今、このコロナ禍の中、3月に卒業する子どもたちを担任している先生方、また、その子たちに関わってくださる方々、本当に、本当に、ご苦労様です。どうか、知恵と工夫を発揮されますよう、そして素晴らしい卒業式になることを願っています。
なお、私はこのコラムで、「担任が不在の場合で、どうしても代替講師がいない時に、教頭がその代わりをすべきだ」ということを述べたのではありません。あくまで、このような場合もあるということで述べました。教職員が何らかの事情で長期休暇を余儀なくされることは当然あり得ます。その場合は教育委員会や行政が、体制として教育現場をより一層支えていただくことを切に切にお願いいたします。
冒頭で引用した詩の後半に、次のような一節があります。
『どんなものが出て來ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ』(注2)
~ 「みんなで朗らかに、乗り越えよう!」と、呼びかける日 ~ (勝)
(注1)「高村光太郎全集 第十九巻」 高村光太郎 著、筑摩書房、1996年5月発行、24頁から引用。
(注2)同、27頁から引用。