経世済民

 12月になり、徐々に寒さが厳しくなってきました。2学期総仕上げのこの時期、教育現場では何かと忙しくされていることと思います。教職員の皆さまにおかれましては、どうか心身ともにご健康でと祈ります。

 12月と言えば思い出す、苦い経験があります。確か、教員2年目の出来事だったと思います。12月の給料をもらった日に、幾人かの教職員仲間と忘年会を行うことになりました。給料やボーナスが現金支給されていた時代だったので、給料袋を上着の内ポケットに入れて出かけたのです。
 仲間たちとのお酒もすすみ、宴もたけなわの時には、私はすでに酔いがまわっていました。意識もうろうとする中、ふと上着の内ポケットを確認すると、そこにあるはずの給料袋が無くなっていたのです。その途端に酔いがさめ、仲間に状況を話すと、みんなが探し回ってくれました。しかし、給料袋は見つかりませんでした。
 翌日、私の胸中を察した数人の同僚たちがカンパをしてくれました。もちろん、給料の額よりも少なかったですが、心遣いをものすごく嬉しく思うと同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。そして、カンパしてくれたお金は単なるお金ではなく、“真心そのもの”との思いになったのです。

 その時、かつて読んだ小説『路傍の石』の一場面が蘇ってきました。主人公の吾一少年の家庭では父親はろくに働かず、母親おれんの内職頼みの生活は極貧状態でした。
 そのため、吾一は幼くして奉公に出されます。ある日、初めて手にしたお給金のすべてを母親に渡そうとします。しかし母親は、息子が働いて手にしたお金だからと一旦は遠慮します。しかし吾一の気持ちを察した母親は、結局受け取ることにするのです。その時の母親の心情を表現した次の文が、今でも心に響いてきます。

 「たとい五十銭のお金でも、むすこが働いて、はじめて取ってきたお金であると思うと、おれんの目には、それはもう金銭というようなものではなかった」(注1)
 「吾一の血の結晶のように、尊いものに思われた」(注2)

 どうして今でも心に響いてくるのか。おそらく、金額云々ではなく、お金に込められた“人の思いや願い”に尊さを感じた母親の“眼差し”に、熱いものが込み上げるからです。

 お金というのは確かに大切であり、個々の生活を豊かにするため、そして社会や経済の発展のために必要なものです。しかし、お金こそが最上のものとする「お金至上主義」「拝金主義」は、お金に込められた“人の思いや願い”が抜け落ちているのではないでしょうか。そのように危惧しているのは、私だけではないと思います。
 少し次元は異なりますが、経済とは経世済民(けいせいさいみん)を略したものと言われています。経世済民の意味は、「世の中を治め、人民の苦しみを救うこと」(広辞苑)とされています。私は、「世のため人のため」という心にこそ、経済の本質があると考えるのです。
 このような思いを致す時、やはり教育の重要性を痛感します。なかんずく、小中学校の義務教育が最重要であると思えてなりません。ものごとの奥に込められた“人の思いや願い”を捉える感性を育むのも、義務教育の大切な役割であるからです。そんな豊かな感性を持った子どもたちが、社会の各分野で活躍する姿こそが希望ではないでしょうか。未来を切り拓いていく主人公は、まぎれもなく今の子どもたちなのです。

 一陣の北風が、色づいた葉を舞い上がらせています。その葉が散り落ちた光景は、さながら紅葉が織りなす“秋の絨毯”です。よく見ると、一枚一枚、同じ色はひとつもありません。だからこそ、“秋の絨毯”は美しく輝いて見えます。まるで、子どもたち一人ひとりの特性や持ち味を活かし、支え、認め合っている学級のようです。教職員一人ひとりの立場や経験を活かし、絶妙に調和している教職員集団のようです。

 ~ 葉を落とした枝に、新芽を見つけた日 ~  (勝)

(注1)(注2)「路傍の石」 山本有三 著、新潮社、1980年5月発行、2003年1月改版〈31刷〉、222頁から引用。

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