車窓から街並みを見つめる少年

 かつて、私が小学校で校長を務めていた頃の、今も心に残っている出来事があります。
 電車は6年生を乗せて大阪梅田から神戸方面に向かっていました。卒業遠足で、阪神甲子園球場近くにある「職業体験施設」にいくためです。最近ではキャリア教育の一貫として、卒業遠足にこの「職業体験施設」に出かける学校が増えてきました。
 小学校生活最後の遠足とあって、車内の子どもたちの表情は嬉しさに満ちていました。そんな中、私は一人の少年のことが気掛かりでした。普段から子どもたちの集団からは少し距離を置いて学校生活を送ることが多い子でしたが、その日もみんなからぽつりと一人離れて、車窓から流れる街並みを見つめていたのです。
 電車が武庫川あたりにさしかかった頃、私は彼に近寄ってみました。その時、彼は私に、「校長先生、この辺の家や建物はみんな新しいけれど、どうしてか分かりますか」と言ってきたのです。私はその理由は分かっていたのですが、あえて、「うーん、どうしてかな。君、知っているの?」と言葉を返したのです。すると彼は、「阪神淡路大震災の時に、この辺の家や建物は全部壊れてしまったので全部新しいのです」としみじみと語りました。私はこの言葉を聞き、「彼は普段、物静かで一人でいることが多いが、彼の心の中は誰よりも“悲しい思いをした人への感性”に満ちている」と感じたのです。
 この「職業体験施設」には飲食業や建設業、また、金融業やサービス業等々のあらゆる業種の仕事が体験できるようになっているのですが、彼は運輸業の「電車の運転」コーナーへ真っ先に走っていきました。私はこの様子を眺めながら、「彼は将来、電車の運転手になったならば、人々の命を安全に運ぶことに“全神経を集中”して業務を全うすることだろう」との思いになりました。

 最近、悲惨で痛ましい事件が後を絶ちませんが、罪を犯した人の動機として、「仕事の人間関係でむしゃくしゃしたから」ということを耳にします。その時に、その人が教育を受けていた時期が、私が教育現場で奮闘していた時期と重なっていることがあります。そのたびに、直接に私が関わった人ではなくても、その同時代に教育現場に身を置いていたことで、「しっかりとしたキャリア教育をすべきだったのでは」との自責の念に苛まれるのは、私だけではないでしょう。
 「働く」とは「傍(はた)を楽にする」こと。本来、「働く」とは「周りの人や他者を楽にする」ことではないでしょうか。1日の約3分の1を占める労働時間を“他者のために費やしている”と考えると、「働く」とはものすごく尊いことと思えてきます。
 その一方で、人は仕事の内容や職場の人間関係などで悩むことが多いのも事実ではないでしょうか。私自身も教育現場の“理想”と“現実”の中で悩み抜いたことが、昨日のことのように思い出されます。

 教育現場では、小学校→中学校→高校を通してキャリア教育に取り組んでいますが、私はキャリア教育の前提として、「生き方と仕事」という視点の必要性を感じるのです。
 キャリア教育では、単に“やりがいのある仕事を見つける”ことだけではなく、希望した職業で“理想”を持ち続けて働くとともに、職場の人間関係等に起因する悩みの“現実”をどのように乗り越えていくかをも学んでいく必要があるのではないでしょうか。さらに、“理想”と“現実”とを客観的に見つめながら自分の心をコントロールして、自らをより良い方向性へと高めていくための、下から支える“心の土台”が必要であると感じるのです。

“人は人によって、磨かれ成長する”とは、多くの先輩から学んだ考え方です。今では、私の座右の銘となっています。この考え方こそ、自らをより良い方向性へと高めていくために必要な“心の土台”であり“生き方の哲学”であると、これまでの体験を通して強く確信しています。
 これらの関係性を示したのが、「生き方と仕事」のイメージ図です。コロナ禍が拍車をかけて、よりストレスの多い現代だからこそ、これからのキャリア教育は、「生き方と仕事」というテーマを前提にして取り組んでいく必要性を痛感します。

生き方と仕事

 

 車窓から流れる街並みを見つめていた少年が、いつの日か、人々の命を安全に運ぶことに“全神経を集中”して運転をしていることを夢見ます。彼のような心を持って業務にあたる人が増えることを祈る昨今です。

 ~ 紅葉前線南下の便りに、深まりゆく秋を感じる日 ~  (勝)

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