外見における社会的評価と「らしさ」を考える(未来Watch2021冬号掲載)

 今の時期、大学構内でスーツ姿の学生を見かけることが多くなります。普段はカジュアルな服装で友人たちと談笑する姿を見慣れているのもあって、キリっとしたスーツにネクタイ、革靴という装いの学生を見ると良い意味で一瞬誰だかわからないことがあります。そして、身元が判明した時、その緊張感のある顔つきとそれを目にした私の脳内情報処理のバタバタによって、改めて被服の力というものを実感させられます。
 被服というのは「纏う者の心理」に影響を及ぼしますが、それを目にする「他者の心理」にも影響を及ぼします。実際、何を纏っているかによって他者からの社会的評価や好感度などが変化し、一般的に社会的評価の高い服装傾向というものがあることも研究から明らかになっています。冠婚葬祭などの式典や格式のあるレストランでのドレスコードは非常にわかりやすい例ですが、私たちは日々の生活の中で自ずと目に見えない社会的規範というものを察知し、その規範から逸脱しないもの、或いは、自らの理想とするイメージから大きく外れないものに対し、安心感と信頼、更には高評価を下すということを繰り返しています。
 私の勤務する大学に学校制服はありません(短期大学にはあります)。日本の多くの大学では学校制服は導入されていませんから、通常学生たちは思い思いの服装で登学してきます。幸いにも!?「とんちんかん」な衣服を着てくる学生はおりませんが、では一定の社会的規範から逸脱しない「学生らしい服装」というのはどういうものなのでしょうか。この「らしさ」というのはとても厄介なもので、個性という大義名分の下にどんな被服でも歓迎されるのかというと、先ほどの社会的評価という観点から考えても残念ながらそうはいかない側面を持っているようです。勿論、それも含めて本人がそれをよしとするならば「自由」であることに何の異論もないわけですが、周囲はよくも悪くも否応なしに様々な思いを抱えることになるのは、被服がその人物の印象形成や社会的評価に大きな役割を果たしているからなのです。

 さて、「らしさ」というものを外から見た時、私たちはそこに何を求めているのでしょうか?ここで少し社会心理学的なお話をさせて頂くと、実は、非常に自由な発想で捉えられがちな「自分らしさ」というものと、社会との関係の中で求められる「らしさ」というものは切っても切れない関係にあります。私たちは、何かしらの社会的カテゴリーに属しており、その社会的カテゴリーが持つある種のイメージを自分自身と結びつけることによって自己のイメージを形成していきます。これを「社会的アイデンティティ」と呼びます(一方、自身の能力や趣味、価値観といったものによって形成されるアイデンティティを「個人的アイデンティティ」と呼びます)。しかも、自分はこの世界において一体何者であるのかという社会との結びつきの中で自覚する「社会的アイデンティティ」は、自身の在り方や価値観の形成とも深く関わっています。「社会的アイデンティティ」の形成は、一見社会から切り離して捉えがちな「自分らしさ」というものを私たちに意識させながら社会との繋がりをも見出すことができるとても重要なものなのです。学校制服というのは、社会との繋がりを明確に表現したものであり、ある種の社会的イメージを私たちに提供してくれる存在になり得るものです。このような視点に立って考えてみると、学校制服は、子どもたちが自分はどこに所属し、どこと繋がり、どのような存在であるのか、そして何者であるのかということを意識するためのツールになり得ると考えることができるのではないでしょうか。アイデンティティは児童期から本格的に確立されていきます。この自己形成における重要な時期に、子どもたちが何を纏うのかという問題は、単なる好みや大人たちの都合だけで片付けてはならない問題であると考える必要があります。子どもたちが社会との結びつきを実感し、自分の居場所を見つけることができる、そして、その中でポジティブな「(自分)らしさ」を構築できるような環境はどのようなものであるか、社会的ツールとしての学校制服のあり方を改めて考えて頂けたらと思います。(祥)

※未来Watch2021冬号に掲載。

211213_sashie_2

皆さまの声をお聞かせください