被服でその人の性格までわかってしまう?

 私たちが普段あたり前のように着用している衣服。今日は何を着ようか、これを着て行って大丈夫かしら、この格好は人からどんな風に見えるかしら、と被服に少なからず関心を持っている人は、日々そんなことに頭を悩ませているかもしれません。一方で、被服に何の関心も無い人でさえ、裸で出歩くわけにはいきませんから、とりあえず何かしらを身に纏うことになるでしょう。要するに、社会の中で生きていく以上、私たちの生活と被服とは切っても切れない関係にあるのです。そして、興味・関心を持ってあれこれ考える場合もそうでない場合も、被服はその役割・機能をもってして、私たちにその選択を迫ってくるものだということに気付く必要があります。

 では、私たちが他者の目を気にして「何を着用するか」という問題に時として直面することがあるのはなぜなのでしょうか。それは、被服の機能の1つに「情報伝達」機能というものがあるからだと言ってもよいでしょう。例えば、暑い夏の日、真っ白なノースリーブのワンピースに真っ赤なサンダル姿の女性を見かけたら、皆さんはどのようなイメージを抱きますか?「爽やか」「スタイリッシュ」「カッコいい」・・・はたまた「自分に自信があるのだろうな」など外見だけでなく、その人物の内面にまで想像を巡らせる人もいるでしょう。では、これが真冬の雪が散らつくような寒空であったらどうでしょうか。先ほどまでのポジティブなイメージから一転、色々と思わずにはいられないはずです。なぜなら、私たちは、被服によって社会的地位や役割、状況的意味、そしてその人の性格傾向や人となりまで想像することが可能だからです。これが被服の「情報伝達」機能です。それは、望むと望まざるにかかわらず、被服から発信される情報によって私たち自身が他者から何かしらのジャッジをされていることを意味します。そして、私たちはそれを日常生活の中で経験的に感じとっているということなのです。こうなってくると、いつでもどこでも自分の好みを全面的に押し出して「好きな服を着る」ということは、ある意味大変勇気のいることだと言えるかもしれません。

 被服の「情報発信」機能によって、私たちは自ずとそこから多くの情報をキャッチする(キャッチャされる)ことになります。そして、その情報というのは、時に何の根拠もない偏見に満ち満ちたものであることも少なくありません。むしろ、偏見以外の何物でもないと言っても過言ではないでしょう。被服に関するある研究では、人は、被服のタイプと着用者の性格傾向との間に何らかの関連性を見出すことが明らかにされています。また、社会的に好感度の高い被服系統がどのようなものであるかということも明らかにされています。私たちは被服によって何らかのイメージを共有し、それによって社会的評価を下される可能性があるということを心しておかなくてはならないのです。

 これは子どもたちにも言えることです。子どもたちは学校という小さな社会で生活しています。そして、その中で私たち同様、さまざまな観点から評価されながら他者との関係を築いていきます。これまでの研究で、被服によって学業の成績評価に差が出るという知見も得られています。教師が子どもに対するイメージを被服から受け取り、それが成績評価に影響を及ぼす可能性を示唆したものです。学業成績にまで影響が及ばずとも、被服によって性格傾向などが推測され、それが人間関係に影響を及ぼすということは想像するに難くないでしょう。これは被服の「社会的相互作用」に関わる機能によるものですが、その根本にあるのは被服から発信される多くの情報にあるのです。

 では、子どもたちはどのような被服を選択する必要があるのでしょうか?学校という「場」に行くのに相応しい被服とはどのようなものなのでしょうか。学校生活において、内面への誤解を与えず、子どもたちが自由に自己を表現できる被服、偏見を持って評価されることのない被服とはどのようなものなのでしょうか。これはややもすれば答えのない問題なのかもしれませんが、だからこそ私たちは試行錯誤していかなければならないのだと思います。(祥)

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