私たちは社会生活を送る上で、「ウチ」と「ソト」の顔を使い分け、TPOに合わせて被服も選択します。それは自身の帰属集団において、そこから逸脱せず、自身をとりまく社会に適応するために必要な社会的スキルであるとも言えます。場に適した被服を選択することは自分の居場所を確保するための一種の自己防衛でもあります。
集団には公的集団と私的集団、フォーマルグループとインフォーマルグループという捉え方があります。公的集団・フォーマルグループは意図的につくられた集団であり、学校は元来これに相当します。一方、私的集団・インフォーマルグループは、学校や学級内などで仲の良い友だち同士が集まってできる自然発生的な集団です。学校集団は公的集団の中に複数の私的集団を含んでおり、両機能を持ち合わせた非常に複雑な構造をしています。公的集団・フォーマルグループにおいては明確な規範が存在することが多く、常に従うべき基準として扱われるため、そこに所属する我々は迷うことなくその規範に従っていればよいことになります。規範がない場合に比べ、ここでは自身の行動の指針になる情報が明確に示されるため、自らが全てを決定しなければならないという心理的負担は軽減される可能性が高いと言えます。
一方、私的集団・インフォーマルグループの場合、複雑な人間関係の中で何らかの規範が自然発生的に出現し、私たちはそれらを「雰囲気」として感じ取り、その集団に適応するための規範として従うべきという同調圧力を感じることになります。被服に関してもそのような同調圧力がある中で、過度な逸脱を避けつつ帰属集団に上手く馴染む被服を選択しますが、状況次第ではその選択に大きな心理的負荷がかかることが推測されます。なぜなら被服選択は社会的認知とも深く関わっており、どのような装いをしているかによって、その社会的評価に影響を及ぼすからです。しかも、私的集団・インフォーマルグループは、そもそもそのような規範のない集団として発生しており、そこで自然発生的に生まれた規範に明確な基準はなく非常に曖昧なものであるため、どのような規範であるのかは、自らの洞察力や分析力でもって見極めなければなりません。このように、明確な意図に基づいて作られた集団ではないところに所謂守るべき規範が発生することは、自由であるからこその不自由とも言えます。その心理的負荷は、予め定められている規範に従うよりも大きなものになる可能性があります。
このように考えると、学校において明確な規範が示されない自由な被服選択は、個人の嗜好や価値観に委ねられているように見えて、実は公的集団・フォーマルグループであるという前提が重要になります。学校は公的な学びの場である以上、誰が決めたわけではないにしろ、その被服選択に本当の自由はありません。更には、公的集団に内包される私的集団においても自然発生的な規範が生じる可能性が高く、その私的帰属集団における他者の目、他者からの評価を意識した選択にならざるを得ません。学校集団においては、他者からの目を意識しない被服選択をした場合、その基準は公的集団と私的集団両方の基準に照らし合わされ、より一層陰湿な形で他者から評価される可能性があるのです。その結果、公的集団でも私的集団でも、「黒い羊」としてみなされてしまうことになります。要するに、学校という場においては、公的集団における規範と私的集団における規範のいずれも満たすものでなければならず、自由選択であるが故に発生するダブルスタンダードによって評価されてしまうことになるのです。
被服は一瞬にしてその視覚情報が認知され、1人の人間の印象を形成します。一瞬だからこそ、その分慎重にならざるを得ず、その選択は自由であれば自由である程、目に見えない規範を探し求めることになり、その規範への同調は、集団での人間関係に影響を及ぼします。そして、自らの選択に責任を負い、他者との関係、社会との関係にも責任を負うことになるのです。自由であるが故の責任は思った以上に重いのです。
人間関係の混乱は、集団そのものの混乱とも言えます。被服は、個人の価値観やライフスタイルを手軽に反映できるものではありますが、それらを重視する昨今の世の中の動きによって、学校が従来の機能を失いつつあることが懸念されています。社会心理学の研究では、教員を対象に学校制服への意識を調査した結果、制服の着用が「規律を正す」機能を持っていることも明らかにされています。集団規範という観点から考えた場合、ダブルスタンダードが発生し得る学校においては、学校制服は実に理にかなったものであると言えるのかも知れません。