前回のコラムで、著名な先生方に共通して流れている「慈愛の哲学」が、”違いを認め合う”学級づくりにもつながったと述べました。それを受けて今回お伝えしたいのが、子どもたちの心の奥に共通して存在しているものに着眼することが重要であるということです。それはいったい何だろうかと私は考え、模索し続けながら子どもたちと関わってきました。とは言っても、それを忘れてしまうぐらい悪戦苦闘の毎日でしたが・・・。
ある日、大村はま先生の著書にあった一文に目が留まりました。それは、子どもについて語られている部分です。
「いくつであっても、伸びたくて伸びたくて・・・・・・」(注1)
「伸びたいという精神においては、みな同じだと思います。一歩でも前進したくてたまらないのです」(注2)
私は、思わず声をあげたくなりました。
─── そうだ、子どもたちの心の奥に共通して存在するものは、「伸びたい、成長したい」「もっと可能性を開花させたい」という意欲ではないのか。確かにどんな子どもにもその意欲はある。いや、大人も持っている。しかし、子どもはより強い意欲を持っている ───
子どもたち一人ひとりには、当然「違い」があります。しかし、すべての子どもの心の奥深くには、共通して「秘められた可能性」が厳然と存在しているのです。私は、「秘められた可能性」に着眼することこそ、“違いを認め合う”学級づくりにつながるのではないかと確信を深めたのです。
その子ならではの可能性を引き出すためには、まず、「今日はこれが出来るようになった」「今日はこの問題が解けるようになった」という自信を持たせることであり、「自分にはこんな力があった」という自尊感情を持たせること、可能性を実感させることが大切だと考えます。自分自身の可能性を実感できるようになれば、「物静かな隣の子も可能性を秘めている」「いつも笑顔なあの子も可能性を秘めている」等々、まわりの仲間を認め、尊敬するのではないでしょうか。そして、「秘められた可能性は、みんなが持っている。だから、みんなは私と同じなんだ。顔や姿は違うけれども、みんな、私と同じでつながっているんだ。みんなは素晴らしい友だちなんだ」との気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。
学校は「学びの場」であることは当然ですが、「学びの場」とは、自分の秘められた可能性を「開花させる場」であり、友だちの秘められた可能性を「実感する場」でもあります。そのように捉えることの大切さを、私自身の学級づくりの反省も込めて今しみじみと感じるのです。
─── “みんなちがって、みんないい”(注3)とは、顔や姿は違っても、秘められた可能性を持っていることはみんな同じである。だから、みんなつながっている。みんないいのだ。素晴らしいのだ ───
若い頃の私は、この言葉を単に「美しい言葉」としか捉えていませんでした。しかし、教育現場で多くの方々や子どもたちと接することができたおかげで、今、ようやく本当の意味が分かったことに、感謝と感動の思いが込み上げてくるのです。この言葉は、「多様な人々と関わる中で、逞しく生き抜く力を与えてくれる言葉」でもあったのです。
一段と寒さが増すこの時季に、寒さに負けない、いや寒いからこそ凛と咲く水仙の花。この姿は、一人ひとりの違いを乗り越えて、みんなで希望に向かって逞しく歩んでいく子どもたちの姿と重なって見えてくるのです。
~ 「差異の
(注1)「新編 教えるということ」 大村はま 著、筑摩書房、1996年6月発行、2021年4月 第40刷発行、27頁から引用。
(注2)同上、27~28頁から引用。
(注3)「金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと」 金子みすゞ 著、矢崎節夫 選、JULA出版局、1984年8月発行、2020年9月再発行、107頁から引用。